椿がポツポツと姿を見せ始めている。
あんこ椿の島と言われる位、椿で有名だが、学生の頃一度だけ大島へ行ったことがある。
間の悪いことに、帰りの舟は大時化に遇い命からがら帰り着いたのが強烈な印象であった。
つばきと言えば関東では、大島がつとに有名であるが、その大島を含め江戸時代は伊豆七島は流刑の島であった。
関西方面の流刑地はまた別個であるが、京都からの流刑人は高瀬舟で大阪に送られてから、
それから各地へと配されたのであろう。
鴎外の高瀬舟はその高瀬舟で送られる、ある流人の身の上の話であるのはよく知られている。
さて伊豆七島への流刑は手に職のあるものはいざ知らず、何の特技もないものにとっては、
食を得ることはほとんど不可能に近い状態であったようで、ほとんど死を意味したのであろう。
島民自身、貧しい生活であってみれば、流刑人が生きていくことはほとんど不可能であったろう。
身寄りのあるものは流刑に際して、或は後から米や金を送ることは出来たようだが、
人間という生き物の悪さがこんなところでも出ていたようで有る。
流刑人に送るように託された銭や米をくすねる悪人がうようよしていたらしい。
人間の性根は生まれながら性悪であるとは、荀子はよくも見抜いたものである。

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